2012年12月29日

『レ・ミゼラブル』〜映画と舞台の言語の違い

すごくヒットしてるらしく、それにイチャモンつけるみたいで申し訳ないんですが…映画の『レ・ミゼラブル』、個人的にはそこまで素晴らしいと思えなかった。

映画版の『レ・ミゼラブル』を見て感じたのは、舞台と比べてなんてスケールが小さいんだろう、ということだった。仮釈放されたジャン・バルジャンが嶮しい山を越えるシーンではホンモノの山でロケをしているようだし、6月暴動のシーンではホンモノの(あるいはそれにそっくりの)パリの街でホンモノの馬と多数のエキストラを動員して撮影しているのに、ジャベールはたびたびパリの外壁の上に立って街を睥睨し、轟々と流れるセーヌ川に身を投じるのに、幅15メートル、高さ6メートル、奥行15メートルの空間で、アンサンブルも含めて数十名で演じた舞台のほうが、はるかに雄大なスケールで作品を表現できているのはなぜなのだろう。

思うに、舞台と映画は同じフィクションを描くにもそのアプローチのしかたに大きな違いがあり、ミュージカルの『レ・ミゼラブル』は舞台に最適化されていたために、映画への置換が難しすぎたということなのではないか。

舞台という限られた環境では時間も空間もデフォルメされ、象徴を多用することで現実の代わりにする。時間の経過やシーンの移動は暗転や幕やスポットライトで表わされ、一脚のスツールが電気椅子にもなれば玉座にもなる。観客は無意識のうちにそうした約束事を自分の中で解釈して現実に置き換えているが、それは舞台で演じる生身の俳優と共有するからこそ成り立つビジョンである。

いっぽう、意図的に歪曲したシュルレアリスム映画のようなケースを除けば、映画はリアリティを重んじる。玉座と電気椅子を同じ大道具で済ませることはありえないし、シーンにあわせて背景セットを作り、あるいはロケをする。メインの登場人物はスポットライトの代わりにクローズアップで強調され、時間の経過さえモンタージュのような技法を用いて少しでもリアルに表現しようとする。

ユゴーの原作を舞台にあわせて脚色したのがミュージカル版の『レ・ミゼラブル』で、そもそもこの脚色の時点で舞台的なデフォルメが施されている。時間も場所も単純化されていて、たとえばフォンテーヌの放逐、ジャン・バルジャンとジャベールの再会、ジャン・バルジャンの正体の発覚がほとんど同じタイミングでやってきたり、マリウスとコゼットの出会いから別れまでがほんの数日のあいだに起こったりと、とても圧縮した内容になっているのだ。これは舞台ではあまり違和感がないが、映画だと妙に映像にリアリティがあるのでこうした単純化したプロットが滑稽に見えてしまう。

典型的なのが誤認逮捕された男のためにジャン・バルジャンが裁判所に駆け込み、名乗りをあげるシーン。実に感動的な瞬間なのに、すぐに死の床のフォンテーヌを訪問するシーンに切り替わる。舞台では "Who am I?" のあとに観客の喝采と場の転換があるので、観客はすんなりと次の場に気持ちを切り替えられるのだが、映画では各シーンがつながっている(舞台的な「場」の転換がない)ために観客は心の準備がないまま次のシーンを迎えることになる。で、結果として感じたこと―市長が裁判所で自分は脱獄囚だと告白してるのに、死にかけた娼婦のとこに案内するって超展開すぎるだろう。

もうひとつ、映画版で違和感があったのが俳優のクローズアップを多用した点。舞台ではもちろんできない技法で、演出上の狙いがあったのかもしれないが、昭和の歌謡ショーじゃあるまいし熱唱してる顔をアップにされても暑苦しいだけだ。

いまひとつ映画に感情移入できないまま見終わったので、マリウスがすごくダメな男だと気づいてしまった。革命はどうしたんだよ、革命は!ブルジョワのお祖父さんちに戻って奥さんもらって一件落着かよ!最後の "People's Song" が白々しいわ!

個人的には、最近のミュージカル映画でもっとも映画的に成功したと思うのは『ムーラン・ルージュ』である。これは舞台の映画化ではなく、『椿姫』や『ラ・ボエーム』を下敷きにしたオリジナル作品だった。鳴り物入りで公開された『レ・ミゼラブル』だが、名曲めあてにヒットした舞台を映画に置き換えたところで、舞台には及ばないと痛感させられる作品だった。
posted by bluegene at 11:31| Comment(2) | 映画